2020年12月3日木曜日

自分の声に太陽をのせて

 "シェアすることは、愛を配ること"


色んな情報を鵜呑みにしたのは私。だけど、それを生き方にしてしまっていた時期も過ぎて、私はこれから一体何が出来るだろうか、っという状態で空を見る。


広い空。自由な雲。それは、姿を現すも表さないも自由な世界。

何かを伝えたいときだけ、雲という物体に宿り姿を現す存在もいて、それはまるでインターネットの世界と同じだと気付く。


私が自由に私の言葉だけで語れたら、どれだけ自由なんだろう。

そう思うけど、なかなか自由に飛び回れない。

鳥かごの中に居すぎて、飛び方を忘れたインコみたいだ。

家の中なら飛べるけど、大空を羽ばたきたいとも思うけど、外は大きい鳥もいて、寒くて暑くて安全で安心な餌や水もない。

そう教え込まれて体に刻まれているインコでも、飛んで行ってしまうことがあるように。

身体には「自由に飛び立ちたい」っという願望が元々備わっているのかもしれない。

愛玩具であることから卒業し、自分で生きる道へ。

自分が窓すらも開けられる身なのに、すっかり調教されて教育されてしまっているのように感じ、あぁ私はインコではなく従順な犬だったのか!っということに気づく。

そういえば、昔からゴールデンレトリバーみたいだと言われていたっけ。

自由に放浪することよりも、誰かに飼われた方が幸せに感じるように、もうそのように出来上がってしまっているんだ。

主人を自分にすればいい。ただそれだけのこと。

自分に従い、自分で生きろ。

それは例え飼われた状況の犬でも一緒だ。


さぁ、立ち上がって、自由な世界へ愛を放とう。







2020年11月13日金曜日

そんな夜

今、息子が2階で一人で寝るチャレンジをしてる。

別にそんな大それたチャレンジじゃないんだけど、たまたま私がまだやりたいことあって、でも息子は眠くて、私は添い寝できる心境でもなく(心のバランスが崩れている時に添い寝するとイライラするだけなので、双方にとって良くないのでやらないことにしている)

結果、チャレンジなう、なのだ。

そもそも、小2って添い寝必要だったっけ?って思うの。
私は2歳上のお姉ちゃんがいたから、そもそも添い寝してもらう習慣があまりなかった。
けど、確かにお母さんが寝る前に居てくれると温かくて安心したし、寝る前に聞かせてくれた物語は未だによく覚えてる。

でも、小2ではなかった気がするんだよな~。

息子は一人っ子だから、とにかく甘えん坊。
でもって、旦那はその甘えっこに拍車をかける甘やかし育児スタイル。
そりゃそうなるわな、って方程式だけど、普段息子と過ごす時間が圧倒的に多いのは私だから、甘えスタンダードにされるのもちょっと困るわけですよね。

ってことで、私は本当はもっと書きたいことや書くべきことがあるのに、
こうして駄文を書いて終わろうとしている。

アウトプットって簡単だけど、すぐに難しくなる。

色々と本気出してやろう!って思っているのに、いつもこの繰り返しだ。
それでもゆっくりじっくりと上昇しているんだけどね。
今夜はなんか焦っちゃった。そんな夜。




2020年6月4日木曜日

羽音ひとつで大航海


オオスズメバチの羽音は、怖い。


他の虫とはひと味違う、あの重低音。


あれは、


『え、べつに、いつでもやってやんよ?』


っていう、宣戦布告に思えてならない。


なんなら、不意を討って

こちらを襲ってきそうで、とにかく怖いのだ。




もしも前世があったなら、私は一度、スズメバチに襲われて死んでいるんじゃないだろうか?

そう思わずにはいられないほど、小さい頃から虫の羽音に敏感に反応していた。

都会育ちも相まって、その過剰反応を克服する機会もないままで大人になった。

そして、大人になってから、自らの意志で山の中で暮らし始めたのだ。

人間って、不思議だ。

私にとっては、右にお台場、左にディズニーランドという景色が“故郷の景色”なはずなのに。

大人になって、恋しさが募るのは

何も考えずに山や緑を見つめ、土を耕し、海を眺める生活だったのだ。

きっと、故郷ってものは、この世で生きた数年なんかより

もっと回数を重ねて私の魂の深いところに刻まれているものなのかもしれない、と思う。


そういえば、以前“守護霊を絵に描く”というセッションを受けたことがある。

知り合いの助産師さんは、羽のついた可愛い赤ちゃんに囲まれていたり

背後に宇宙の渦巻くエネルギーを背負った未来型の男性がついている、なんていうパワフルな人もいて、

一体私の背後にはどんな風景が描かれるのか、と

とてもワクワクしながら向かった。

私の守護霊って、男性なのか女性なのか。

大人じゃなくて、子供って可能性もあるのか〜。。なんて期待してセッションを受けた。

さっそく、順番になり、絵描き(?)の方の前に座った。

私を視ているようで、私の瞳の奥を視ているような不思議な時間。

サラサラ〜っと書き終え、色紙を受け取ると、

私は驚くしかなかった。


『・・・え?人間じゃないの?』


そう、私の守護霊は“自然”だったのだ。

木や山、草原、風。

私の守護霊は、自然そのものだった。

そう考えると、私の今の暮らしはとても心強い。

四方八方を山に囲まれ、家の隣に川まで流れている。

守護霊にみっちり守られているから、天然SECOMだ。

たしかに、夜旦那が不在の時に

「今、この家に泥棒が入ってきたらどうしよう・・・」

っと、急に猛烈な不安に襲われることがあるのだが、

そんな時は必ず、静かな夜の庭からささやくようにかすかに聴こえる

竹の優しいサラサラ〜っという葉の音が


『大丈夫だよ』


っと、言ってくれているような気がして、

いつの間にかに熟睡しているのだ。


















2020年5月14日木曜日

耳をすませばが、好きだ。
原作である柊あおいの漫画版も好き。

あの、10代前半にしかない、世界に向けた胸の高揚感がとにかく好きなのだ。

といいつつ、自分が10代前半だった時は、あまりにも自分の心が多感になりすぎていて


『早く、目の前の物事に対して平然としていられる、大丈夫な私になりたい』


っと切に願っていたことを今でもよく覚えている。

そう願わずにはいられないほど、10代前半は心がむき出しなのだ。


色んなことを一通り経験し終えると


『なんだ、世界はこんなものか』


っと、急に色んなことが平気になる。

そうすると、あの時あんなにも世界に向けて緊張していた気持ちが
急に恋しくなってくるから不思議だ。

あんなにも心から願っていた“平然”は、実は世界に対する“落胆”だったのかもしれない。

つまり、10代前半の私は、まだ世界に対して大いなる期待に胸が膨らんでいたのだ。


34歳になった今でも、私はこの世界のほんの一部分しか知らない。

今ベランダから侵入してきたアリが、この家の全容を把握するのが恐らく不可能であるのと同じくらいの比率で、私はこの世界をきっと一生かかっても把握出来ないだろう。

それどころか、砂糖粒でも落ちてないかと足元ばかりをうろつくアリと同じく、自分の足元ばかりをうろついて餌を探しては、巣に戻ってせっせと卵を育てるのだろう。

生活とは、そうゆうものだ。




















2020年4月4日土曜日

守られる聖域

まだ、小さかった頃の話だ。


私はとにかく“ちいさな世界”が大好きだった。


昔のシルバニアファミリーは、材質が今のようなプラスチック製じゃなかったから
それはそれは胸が躍った。

西洋風な食器棚やタンス、階段、木枠の窓もオシャレだった。



お祭りの日の露店で、運が良ければ買うことが出来るガラス細工も胸が躍った。

鶏の親子とアヒルの親子、熱帯魚やちょっと不細工なブタ。

龍に青と赤のカニ。

ちょっとずつ集めては、勉強机の一角に世界を創った。

それぞれの場所にそれぞれの仲間を集めて、綺麗に並べて眺めたものだ。



未だに私は、細々したものが大好きだ。

小さな世界にめいいっぱい、物語を詰め込む。

聖域のような場所を、あちこちに作るのだ。



こんな些細な趣味にも及ばないことを、

大切にしていこう。

多分、私が守らなくてはいけないものは、

こうゆう小さくて気を抜いたらすぐにでも忘れてしまうものたちだ。


人それぞれに、必ずある

自分の中の、聖域だ。