2021年1月26日火曜日

表現のスタートライン

 言葉が、重い。

重い言葉には、たいがい「他人から、こういう風に見られたい」という欲求が含まれてる。

それこそ"想いが重い"なのだ。日本語って、よぅ出来とる。

今年は書く年にするぞ、っと密かに決意してもうすぐ一か月。現実を見ると何一つと進んでいない。チーン。

だけど、心の方はすくすくと根を生やし、健やかに根を張っている。はず。

目に見える世界にだけ重きを置いてきたけど、それはやめたの。

だって、つまらないから。

私は私のペースで進むし、自分を面白がろうって、決めたの。

今すぐお金になる、とか、そうゆう類の世界から一抜けぴして、今私が出来ることをコツコツし続けること。それしかできないし、それが出来ればいいんだと思うんだ。

こうやって話し言葉のようになら、言葉ってすぐにあふれ出てくる。

あぁ、なんだ、これでいいのか。

つまり、書くって最大の自己受容だ。こんなんじゃだめ、こんなんじゃ評価されない。そうやっていつの間にかガチガチに固まってしまう。

こんな私でも、私は丸ごと愛しているよ、そして愛し続けるよ。

そうゆう気持ちさえ心にあれば、私は自由に世界を飛べる。

安心して、自分を愛そう。表現の出発点は、いつだって自分を愛する心から生まれるのだから。

2021年1月18日月曜日

とりあえず、書ききる。という習慣

 何事も、始めるのは簡単だ。だけど、続けるとなると、途端に難易度が上がる。そして、"やりきる"となると、もうそこには限られた勇者しか立っていない。全日本国民総出で威勢よくスタートラインを踏み越えたとて、"最後までやりきる"というゴールテープを切り、華々しいラストを迎えられる人は、入園制限中のディズニーランドの来客数くらいなものだ。

「空いてていいね~」だ。ほんと、最後までやりきれば「空いてていいね~」が味わえるんだ。でも人は、ディズニーランドへ向かう京葉線始発、東京駅の時点で相当数が電車に乗ることもせずに脱落する。勇気を出して乗車したものの、地下の暗さに耐えきれず八丁堀で脱落し、「これ、イケるぞ!」と越中島までは順調だった者も、数分足らずに「地上に出ても、工場ばっかじゃねーか!」と潮見で憤怒しながら脱落していく。ここら辺を過ぎた頃になると、ゴールの感触を少しでも早く味わいたいがために、新木場で下車し、夢の島熱帯植物館をゴール設定へと上書き変更する者まで出てくる。無論、本当のゴールではないので脱落だ。そこまで何とか耐えきり、荒川の橋を悠々と渡る猛者たち。車内を見渡すと、自分なりに移動の楽しみを見出したもの、エアポッドから流れる音楽に夢中なもの、吊革を掴みながらミッキーマウスマーチを唱えるものなど、心の道のりは千差万別。しかしそんな猛者たちが悠々と荒川を渡りきる時、思わぬ敵と対峙することになる。舞浜直前の大難所、葛西臨海公園駅だ。大きなネズミのカップルも、はちみつの香りがする黄色いクマさんもいないけど、ここには砂利のような砂糖粒をたっぷりまとったカリッカリのチュロスがある。水槽の中でタートルが饒舌なトークを繰り広げたりはしないけど、奄美大島で養殖された見ごたえ抜群のマグロが

2021年1月16日土曜日

寝起きの眼差しに宿る神聖さよ

毎朝、家族より少し早起きする私には、楽しみな光景がある。

それは、寝起き直後のぼんやりとした息子が、2階の寝室から階段をトン、トン、っとゆっくりと下り、襖を開ける瞬間だ。

子供の眼差しはいつもまっすぐと真正を貫いているけど、寝起きの眼差しは特に神々しさを感じる。
その優しい眼差しが私を捉えたとき、ニコッと微笑み「おはよぅ」っと言葉を発する時、「あぁ、母親業続けてきてよかった。」っと心底感じる。

しばらくすると、そのまっすぐな視線はYouTubeに注がれ、目つきも若干変化する。
まるで、朝の澄んだ空気が徐々に色んなものを孕んでいくように。

だから、朝採れ野菜のようなみずみずしさを、朝一番に頂きたい。
それが、今の私の楽しみな光景。