2019年3月11日月曜日

大切な場所

なんで、このブログを始めたのか

もう、思い出せない。


広告ばかりのアメブロも

自己主張と承認欲求が渦巻くインスタと

他人の言動に足を引っかけようとしてる、見えぬ足が無数に散らばるTwitterには

もう、本当の私の居場所は、ない。



久しぶりに読み返した“私”のブログは

とても気持ちがよかった。

文章に、とても共感した。

だって、私が書いたんだもの。

でもね、不思議と

今の私じゃ、書けないような文章が

そこにあって、ハッとした。



どんな気持ちで、書いたんだろう。

ただひたすらに、アウトプットが気持ち良くて


いつだって、ここに居る私は

川の流れのように、豊かに溢れるその思いを

ただただ、流し続けている。





お父さんが、死んだ。

あれは確か、2年前。

私のお父さんは、死んだんだ。


死に顔は、想像通りだった。

何も、怖くない。

もし母が死んだなら、

怖くて怖くて仕方ないだろう。

想像だって、出来やしない。

でも、父の死に顔は怖くなく、そして静かに【想像通り】だったのだ。



お父さんが、一人きりで暮らした山小屋は

猫のおしっこの臭いが、空間全体を埋め尽くしていた。

家族が去った父に残った、唯一の家族が、猫だった。

その猫も去った父の家には、自動餌やり機が置いてあった。

父が死んでもなお、父の帰りを待っている野良猫が一匹、こちらを警戒しながら眺めていたっけ。

あのね、お父さん、死んだんだよ。

全てを知っている猫は、黙ったままこちらを見つめ、去っていった。

お父さん、あなたは、この人生、楽しかったのですか?

お父さんが寝ていたベットを取り囲むように、家族の写真があちこち飾られていた。

私とお姉ちゃん。家族の集合写真。お母さんの両親。伯母さんとお父さんとお姉ちゃんと私。お墓。どれも、昔のものだった。

時が止まった家族写真の中に、1つだけ、新しい写真があった。

いつしか私が送った、私の息子の写真だった。

息子が、リンゴを食べて笑っているその写真だけが、新しく時を刻んでいたのだった。

私が出来た親孝行は、それだけだ。

でも、それだけで充分よくやった、と心のどこかで思っている。

父の止まった時間を、ほんの少しだけ、進めることが出来たから。




来週、私は、父の生まれ育った土地へ行く。

白くて、寒くて、広くて、淋しい場所。

私のたくさんのご先祖様が居るはずのその土地は、私も昔から大好きな土地なのに、思い返すとなぜかとても淋しいのだ。

楽しい想い出が、あるはずなのに。

白いあの街は、いつだって、泣いている。



もしも私に『使命』があるなら。

この物語を、人に伝えることが、それなんだと思う。

溢れるように沸き上がる感情と言葉を、心もとない脳みその皺を頼りに進んで行く。



孤独な作業だけど、この物語に触れている間は、その間だけは、私は父と一緒に居られる。

だから私は、絶対にこの物語を完成させるだろう。

父の魂が、しっかりと光に還っていけるように。

私は、あゆむことをやめない。

ここに、父と母がくれた、命があるから。



































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